青山 周平(あおやま しゅうへい、1984年12月5日 - )は、千葉県市原市出身のオートレース選手(船橋オートレース場所属)。
オートレース転向前はロードレースライダーとして活躍し、2003年全日本ロードレース選手権GP125、2005年同GP250クラスでチャンピオンを獲得している。
兄は青山博一。
3歳でポケバイ、10歳でミニバイクに乗り始める。
11歳で桶川塾に入門。
2001年より全日本ロードレース選手権GP125に参戦。
表彰台1回を含む活躍でルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得し、年間ランキング8位となる。
全日本デビュー3年目の2003年には6戦3勝をあげてタイトルを獲得した。
2004年よりGP250クラスへ転向、1勝でランキング2位となりルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得する。翌年2005年は有力ライダーの同クラス参戦が減ったことから、ライバル不在といわれるような状況であったとはいえ、7戦6勝2位1回で年間チャンピオンとなった。
2006年よりホンダレーシングスカラーシップ(全日本GP250クラスで、ホンダ車に乗りチャンピオン獲得等の活躍をした22歳以下の選手が対象。
期間は2年間)の第3期生として、アルベルト・プーチが率いるレプソル・ホンダよりロードレース世界選手権(250ccクラス)に参戦する。
第5戦フランスGPでは初の表彰台(3位)を獲得し、年間ランキング8位でデビューシーズンを終了する。
また、この年のルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。
2007年は第15戦日本GPで同選手権初ポールポジションを記録。年間ランキング11位でシーズンを終えた。
2008年よりアルト・エボリューション・ホンダ・レーシングからスーパーバイク世界選手権に参戦したが、年間わずか5ポイントの、シリーズランキング30位という惨憺たる結果に終わった。
2009年シーズンはどのカテゴリのレギュラーシートも獲得することができず、さらに前年所属したチームから渡された契約金の小切手が不渡りとなってしまい、周平は自宅の近所にあるラーメン屋「麺や紅丸」でアルバイトをすることになった。
そんな中でもレースへの参戦をあきらめず、スポンサー資金を集めてロードレース世界選手権第2戦もてぎ、250ccクラスへのワイルドカード参戦を果たした。
古巣のハルクプロから、戦闘力に劣る2002年型のRS250Rでの参戦となったが、決勝では見事6位を獲得。周囲へ健在ぶりをアピールした。
これが認められて後に、スペイン選手権のエクストリームクラスと、ロードレース世界選手権250ccクラスの後半4戦を掛け持ちする形で復帰を果たし、250ccクラスでは全戦でポイントを獲得する走りを見せた。
2010年シーズンに向けてMoto2・125ccクラスのチームと交渉し、世界選手権への復帰を模索していたがどのチームとも契約には至らず、2010年2月8日、自身のブログでロードレーサーとしての現役引退を発表し、今後はオートレース選手を目指すことを明かにした。
6月4日発表の第31期選手候補生第2次試験に特例合格後、第3次試験を経て正式に合格し、9ヶ月間オートレース選手養成所で訓練を受け、2011年7月30日に船橋オートレース場で選手としてデビューした。
注目の新人レーサー青山周平(26=船橋)が5Rを圧勝し、史上最多となるデビュー9連勝を飾った。
過去の記録は20期・田島敏徳(飯塚)と26期・竹中修二(飯塚)による8連勝。
青山は前日20日に勝利し、これに並んでいた。
好スタートから難なく主導権を握った青山は道中、後続を突き離す一方の独り旅を展開。
2着の戸塚茂に大差をつけ、歴史的ゴールを駆け抜けた。
丸山 元気(まるやま げんき、1990年10月3日)は、日本中央競馬会(JRA)の騎手。
美浦トレーニングセンターの根本康広厩舎所属。
目標の騎手は松岡正海。
祖父は元調教師の丸山勤。
父はNAR高崎競馬の元トップジョッキーで地方通算1817勝を挙げた丸山侯彦と言う競馬一
家である。
競馬学校25期生。
同期に松山弘平、小野寺祐太、国分優作、国分恭介がいる。
2009年3月1日、中山競馬場第3レースでデビュー。
ヤマタケディガーに騎乗し16頭立ての11着だった。
同年7月11日、札幌競馬場第2レースで8番人気オンザスローンに騎乗し、80戦目で初勝利を挙げた。
同期では最も遅い初勝利だったが、同年8勝を挙げ民放競馬記者クラブ賞を受賞した。
2010年の第1回新潟競馬で開催8日間で15勝を挙げ、第1回新潟競馬最多勝記録を更新した。
また、重賞初騎乗となった同年の福島牝馬ステークスでは、ショウナンラノビアに騎乗し15着に敗れたが、2戦目となる同年の目黒記念では、イケドラゴンに騎乗して2着に入
り、重賞初連対を果たした。
2011年5月8日、セイクリッドバレーで新潟大賞典を勝ち、重賞初制覇。
父親は当初名前を「勇気」と名づけるつもりだったが、直前に隣の家でも子供が生まれ先に「勇気」と名づけられてしまったため、同じ名前がかぶるのはまずいということで急遽「元気」と名づけることになったという。
現在の騎乗依頼仲介者は『日刊競馬』トラックマンの植木靖雄。
当初は父の知り合いのつてで『競馬エイト』の松本ヒロシに依頼したが、既に松本は国分優作を担当することが決まっていたため、松本の紹介で植木に依頼することになったという。
競馬学校3年生の時に藤田伸二の特別講義を受けた一人である。
江崎一雄とは、福岡支部所属のボートレーサー(108期)である。
登録番号4657
やまと学校時代は10戦7優勝 勝率8.64と言う驚異的な数字を叩き出しデビュー節で大原由子選手の通算勝利数記録を超え、優勝戦に進出した「スーパーウルトラルーキー」である。
デビュー2走目で初勝利、同節で準優出、優出したスーパーウルトラルーキー。
生年月日:1987年7月23日
身長:168cm
体重:50kg前後(レース時)
血液型:O型
登録期:108期
出身地:福岡
デビュー:2011年5月9日 ボートレース若松(2着)
初勝利:2011年5月10日 ボートレース若松(2走目)
初準優勝戦進出:1節目(2011/5/12)
初優勝戦進出:1節目(2011/5/13)
深谷 知広(ふかや ともひろ、1990年1月3日 - )は、競輪選手。
日本競輪選手会愛知支部所属。
身長170cm、体重81kg、血液型B型。
愛知県安城市出身。
師匠の金子貴志の出身校である桜丘高校に進学し、同校在学時代の2007年8月7日、メキシコ・アグアスカリエンテスで開催されたジュニア世界選手権自転車競技大会の1kmタイムトライアルにおいて、1分05秒238のジュニア日本新記録を樹立。
また、同年に開催された第62回国民体育大会・少年スプリントで優勝。
2008年4月、奈良競輪場で行われた第28回アジア自転車競技選手権大会のジュニア部門において、個人スプリント、チームスプリント、ケイリンの短距離三冠を達成。
史上最速のS級特進
同年5月、日本競輪学校第96期生として入学。
2009年7月22日、ホームバンクである豊橋競輪場でデビュー戦を迎え、2着選手に大差をつける圧勝劇を演じた。
また、23日の準決勝、24日の決勝も勝ち、この開催の完全優勝も達成。
その後、名古屋、岸和田でも完全優勝を果たし、上原龍(95期)に続いて、2008年にA級チャレンジ制度が設けられてから史上2人目となる、無敗のA級2班(A2)特別進級(以下、特進と表記)を果たした。
さらにA級に昇進してからも、名古屋、福井で完全優勝を果たし、続く大津びわこ競輪場での開催で、菊地圭尚(89期)が持つ、デビューからのS級特進最短記録89日の更新に期待がかかった。
前2日間とも1着で勝ち上がった深谷は、同年9月15日に行われたA級決勝戦において、2着に大差をつける圧勝劇を演じ完全優勝。
デビューからの無敗記録を18に伸ばすとともに、デビューからわずか56日でS級特進を決めた。
また、平成生まれの競輪選手としては、初のS級昇格となった。
その後、11月11日開幕の大垣FI戦でS級デビューを迎え、初日、2日目と連勝。
しかし同月13日に行われた決勝戦でゴール寸前、榊枝輝文に交わされ、連勝記録は20でストップした。
また、2009年10月に境川自転車競技場で行われた、全日本自転車競技選手権大会・個人スプリントを優勝。
2010年、ルーキーチャンピオンレース(武雄競輪場)優勝。競輪祭(小倉競輪場)でGI初優出(7着)。
12月28日に行われたヤンググランプリ(立川競輪場)では、バック付近8番手の位置から、2センター付近で捲り追い込みを試み、ゴール直前で前団勢をまとめて交わし優勝。
2011年よりS級1班に昇班。昇班後最初のレースとなった1月の立川記念競輪に記念初優勝を飾った。