坂本敏美(名古屋)

通算戦績8897戦2483勝

 

北海道静内郡静内町で生まれる。生後まもなく父親を亡くし、母親の再婚先の家に養子に入るという少年時代を送る。中学三年の時、義理の兄が競走馬の育成牧場をしていた縁があって名古屋競馬の安達小八調教師に誘われ、騎手となることを決意。那須の騎手教養所(現在の地方競馬教養センター)長期12期生として入所、1968年に騎手デビュー。同期に塚田隆男調教師などがいる。3年後の1971年以降、1973年、1977年を除き、全ての年度において名古屋競馬のリーディングジョッキーとなり(成績は下記参照)、東海地区で最初の2000勝騎手にもなった(勝ち馬ピチピチボーイ)。ちなみに、1977年度にリーディングジョッキーの座を逸した理由は、騎手騎乗免許の更新を忘れていたことに起因するものだった。とりわけ、アラブでの実績が目立つ。1983年の全日本アラブ大賞典では、トキテンリュウ(名古屋・安達小八厩舎)に騎乗して制覇。翌、1984年の同レースでは、12連勝中のキンカイチフジ(笠松・加藤保行厩舎)にテン乗りで騎乗しながらも、当時脂ののっていた桑島孝春騎乗ローゼンガバナーとの競り合いを「持ったまま」でクビ差競り落として連覇を達成した。ちなみに同レースにおいて、南関東所属以外の連覇達成騎手は、坂本が最初である。この他、名古屋競馬伝統のアラブ重賞競走であった名古屋杯では、スーパーライトやシナノリンボーといった馬に騎乗して制覇している他、1971年に創設された東海優駿(現・東海ダービー)の初代優勝騎手であり、同レースは翌年も制覇している。運命の年となる1985年、連対率は実に6割9分を記録していた。「前の馬の後ろ足と、自分の馬の前足が絡まないようにぎりぎりのタイミング計ってね、さっと横にずらして抜いたのよ。神業。」というほどの技術を持ってた。

 

後年、「東海のエース」として一時代を築き地方競馬のトップジョッキーとして中央競馬に移籍した安藤勝己、そして坂本の全盛期とも多分に重なる競馬場の全盛期には層の厚さで知られた笠松競馬場の騎手陣が束になっても、この坂本にはまるで太刀打ちできなかった。安藤などが多くのインタビューで語るところでは、坂本の騎乗は、騎乗の基本からはまるで逸脱していたが、レースが終わってみれば見事に勝っている、まさに天才のなせる技で、真似をしたくてもできないというより、もはや真似をする気すら起こさせない程のものであったという。

 

 

今年も7月19日がやってきた  (平成21年07月20日更新)
  7月19日。今年もこの日がやってきた。【sakabu-60.7.19@xxx.xxx.xxx】。今はもう、このメールアドレスは鬼籍にある。昨年、2月10日になくなった坂本敏美さんのアドレスであるが、彼の思いが伝わって来るアドレスだけに、消去することなどはできない。
  昭和60年7月19日。騎手・坂本敏美のキャリアに、突如として、不条理にも終止符が打たれることになる。西鉄ライオンズの稲尾和久投手にあやかって「神様、仏様、坂本様」と呼ばれた。連対率5割は当たり前。不慮の事故がおきた年の勝率は2割6分を超えていたと思う。何しろ、この年も最後のリーディングジョッキーとなっているのである。その絶頂期に、まさに突如として……。
  決して美しい騎乗フォームではなかった。追い出す時には両脇を思いきり広げるような追い方だった。しかも、手綱はぷらんぷらん。「それでいて、ササる馬も、モタれる馬も、ちゃんとまっすぐに走らせてしまう。どうなっとるのかしらん」と、他の騎手たちは首をかしげること、しきりだった。今は主流になっているが、昭和50年代当時から、半バミで追っていた。あるいは、手綱はぷらんぷらんでも、「ハミの片方を少しかける格好で、逆に逆方向の脚を押しつけて決める格好で、癖のある馬もきちんとまっすぐに走らせられるんだよ」。後年、坂本さんは、その疑問にこたえてくれたものである。
 現役時代、馬券を握りしめて、何度「トシ!」と絶叫したことか。その都度、われわれの期待にこたえてくれた。天才だと思っていたが、坂本さんは「いや、本当の天才は福永洋一さんだよ。あんな乗り方は僕にはできない」と語っていたものである。常に感性だけではなく、探求心を忘れぬ人だった。「大井へ行った時は、朝からずっとパトロールフィルムを見ていたなあ。それで、乗る前から今でいうイメージトレーニングをしていた」というのである。リーディングジョッキー競走だったか、イスカンダルを御した坂本さんを、今でも伝説のように語る人が南関東にはいる。「持ったままで勝った」キンカイチフジの全日本アラブ大賞典も、いまだに語り草である。
 この坂本さんと、安藤勝己は一線を画していた。彼らが語りあっている姿を見た記憶がない。安藤勝己は、豪腕といわれた山田義男と歓談していることが多かった。このあたりは安藤勝己の意地だったのか。しかし,晩年の坂本さんは安藤勝己の騎乗ぶりを見るのを楽しみにしていた。競馬中継を見ては「ちょっと焦ってるなあ」などと語っていたこともある。「どこにいても勝己はすぐにわかるよ。それに地方の騎手もね。4コーナーを回って直線を向くと、みんなグッと腰を落とすんだよ。地方で乗ってる癖なんだろうね」と笑顔で語っていたものである。「でも、勝己にいっといて。現役を続けてるうちは来なくていいからって。元気に乗ってる姿を見てるからって。楽しみにしてるからって、ね」。
 終のすみかとなった福井県勝山市の療養施設をたずねると、そこに人間・坂本敏美の生きざまを見た。騎手・坂本敏美は凄かったが、人間・坂本敏美はさらにすばらしかった。両乳から下は感覚がなく、もちろん動けない。が、それでいてバランスを取ることによって電動車椅子を自由に操って見せるのである。山奥にある施設から、眼下に見える越前大野市のほうまで出かけて行ったというのだから、なんともはや。しかも、棒を口にくわえて、ワープロから、後にはパソコンも操って見せたのである。毎年、暮れになると坂本さんは多忙になる。施設内の人々から年賀葉書の印刷を頼まれるのである。それを嫌な顔ひとつせずに引きうけてやる。自らの体が不自由であるのに、他の人への気づかいも忘れない。さらにはしきりに、東海公営の状況について心配していた。年に一度か、せいぜい二度たずねるのがやっとだったが、いつでも快く迎えてくれた。そして、辞する時には、必ず玄関まで見送ってくれるのである。その姿が今も目に焼きついている。暮れに競馬カレンダーを手土産にたずねることが多かったが、最後の年はたずねることができなかった。郵送したカレンダーに、「ついたよ。ありがとう」というのが、最後のメールになった。
 最近ある本に、ジュサブロウのことを書かせていただいた。「いまだにジャパンカップの7着は、受け入れることができぬのである」と、結ばせていただいたが、ジャパンカップをジュサブロウ、坂本敏美のコンビ、さらには安達小八の黄金トリオで挑ませてやることができたなら……。たらればに類する話になるが、なお残念でならない。私のホースマン生活のなかでの、最も悔しく思われることである。

 

 

この方の現役時を覚えてみえる方はどれだけいるでしょうか?
昭和60年に落馬事故で騎手を引退されたので、
ネットを頻繁にやるような若い人には到底知りえない存在でしょうか。
俺も、競馬を見始めたのは10歳で競馬暦20年になるけれども、
ギリギリで坂本さんの現役時代を知りません。
しかし、残された数字から彼の偉大さを知ることが出来ます。
その圧倒的で輝かしい戦績を見るにつけ、
過去には凄い人がいたものだ・・・と思わされるのだけども、
しかし、その素顔を知ることはほとんど出来なくなっています。
落馬後の坂本さんの暮らしや考えを知ることはほとんど出来ないけれども、
狩野洋一さんの「天才騎手」という本に、いくらか記されています。
ちょっと前からのアンカツファンなら、かなりの方が持ってみえると思いますが。
中央入り前のアンカツの事を追いかけたノンフィクション本だけど、
その中で、坂本さんについてかなり触れられています。
なんていうか、読んでいると悲しくなってくるわけですが、
もしご存知でない方は、是非とも手に入れて読んでいただきたい。
アンカツが「天才的な騎手、理解できないから目標にはしない」と言った、
坂本敏美という偉大な騎手がいたことを、多くの人に知って欲しい。
知り合いに、坂本さんの騎手時代に馬券を買っていた人がいくらかいるので、
どういう騎手だったかという話は聞いたことがある。
坂本さんを知る人たちの話の中で興味深いことがあって、
坂本さんの騎乗フォームは他の誰とも似ていなかった
ということだ。素人目にもなんか変だったということ。
逆に、坂本さんが乗ってる馬はすぐに分かったという事だが。
元競馬関係者だった人もいるんだが、その人の意見も一緒。
「何であの格好で馬が走るのか不思議だったよ」
と、その人は言った。
「ようするに天才だったんだろうねえ」と。
馬を走らせるのに「見た目の格好」は関係ないと、
俺はこの坂本さんの話を10年以上前に聞いてから持論としている。
常識的に考えて、姿勢に基本というものはあるはずで、
馬上でグラグラするよりは、安定して美しい方が良いはずなんだけど、
それは走らせることの本質からすると、意外と些細なことであると、
俺はずっとそう思っている。
アンカツはかつて坂本さんについて、
「あの人が乗ったらどんな馬でも走った。よく分からなかった」
ということをインタビューで言っていたが、
それは多分騎乗フォームのことだったんじゃないかなあ。
「天才騎手」の中にもそのくだりがあるのだが、
そのフォームは本当に坂本さんだけのものだったそうだ。
映像を手に入れることが出来ず、その姿を見ることは出来ない。
実際に坂本さんのレースを見てみたかったなあ・・・。
最後に。狩野氏の著書「天才騎手」より。
事故後、坂本さんが中学生を相手に講演した時の内容からの抜粋。
「障害者になってから、私の人生は全て変わりました。
苦しいことや辛いこともありましたが、
それよりも人を信じられなくなることが情けない。
その一方で、新しい出会いがあり、
今まで知りえなかった人の優しさや思いやりに触れました。
特に、心を許せる友達が多く出来たことが幸せです。
現在は、自分なりに満足した生活を送っております。
どんな些細なことでも、自分自身が楽しく思えば、それで幸せになる。
大切なことは「心も満足」だと気づきました」
栄光の人生からとても辛い出来事を経て、
それとしっかりと向き合い人生を全うした坂本さん。
直接見たことはないけれども、さまざまな話を聞き、後の人生を知り、
騎手としてだけでなく、人として尊敬していました。

 

 

昭和58年全日本アラブ大賞典

直線では、ゴールまで、内ミヤオーショウ(川島正行)、中トキテンリュウ(坂本敏美)、外イワミボーイー(佐々木一夫)の三頭による、”抜け出し差して差し返し、又差して、又差し返して、最後差し返した”が繰り広げられました。
1着トキテンリュウ
2着イワミボーイー
3着ミヤオーショウ (三頭同タイム)